5日目 モンテ・ゴゾ観光〜ポルト観光(翌朝の散策を含む)

既述の通り朝の散歩で道に迷ってホテル帰館が遅くなり、朝食を食べる間もなく荷物をまとめて集合。
恐らく今回のツアーで一番値段が高かったであろう朝食にありつけなかったのはいかに食事に興味がない私としても残念無念でした。

ホテルを8;00に出発、東方約5kmにある「ゴゾの丘(歓喜の丘)」に向かいます。
ここはサンティアゴに向かう巡礼路の途中にあって、長い旅路を経てここまでようやく辿り着いた巡礼者が初めてカテドラルを目にすることができて喜びと感謝の念に浸ることから名付けられた小さな丘です。
ツアーの趣旨からすればサンティアゴに着く前にここに立ち寄らなければ順序がおかしいのですが、既述の通り町の競歩大会の混雑を避けるため逆の観光順路になってしまったものです。
タイミングよく丘に到着と同時に朝日が昇り、多少靄がかかってはいたものの朝日に照らされたカテドラルの尖塔がよく見え、巡礼者の喜ぶ気持ちが分かるような気にさせられます。
この丘には本来なら喜びと感謝を表現した2人の巡礼者のブロンズ像があるのですが、工事中のフェンスに囲まれているうえに1体は出張中(?)でした。
この丘のすぐ近くにはローマ教皇パウロ2世来訪記念のモニュメントがあるのですが、時間の関係からかそちらはカットされました。
ゴゾの丘からカテドラルを望む 修理中の巡礼者の像 朝日が射しこむ木立ち

これでスペインの観光はすべて終了です。
スペイン北部には今回の訪問地のほか、ブルゴス(世界遺産の「ブルゴス大聖堂」と英雄エル・シドの墓がある町)、エル・エスコリアル(スペイン黄金時代の王室の霊廟がある町で、「エル・エスコリアル修道院とその遺跡」が世界遺産)、アルタミラ(旧石器時代の壁画があった「アルタミラ洞窟」が世界遺産)など興味深い観光地があるのですがそこまで欲張ることはない、大変有意義で見どころ充分なスペインツアーでした。

ここからは一路南下、国境を越えてポルトガルに入りポルトまで、約200kmのドライブです。
サンティアゴへの巡礼路として「ポルトガルの道」というのも2通りあって、いずれもリスボンを出発してポルトを中継地としているのですが、今回のツアーで“巡礼”の匂いがするのはスペインだけ、従って“巡礼”という重いテーマが終わってしまうとつい「後はおまけ」みたいな気持ちになってしまいそうですが、ツアーはまだ半分消化しただけ、気を取り直してポルトガル旅行を楽しまなくてはいけません。
国境のミーニョ川(スペイン・ルーゴ以北を水源とする全長350kmの大河)を渡り11時少し前にポルトガルとの国境を通過、シェンゲン協定のお蔭で検問所は無く道路の横に「ポルトガル」と表記した小さな看板があるだけ、もちろんノンストップです。
今朝夏時間の終了で時計を1時間戻したばかりなのに、ポルトガルはスペインより時差−1時間なのでさらに時計を1時間遅らせる必要があります。
「ゴゾの丘」を出発して約250km、3時間でポルト市街のはずれに到着しました。
<ポルトガル>
1143年にカスティーリャ王国(スペイン帝国の元)から独立、また、997年にはポルト、1147年にはリスボン、最終1249年に南部のファロとシルヴェスをイスラム勢力から奪回してスペインより先にレコンキスタを終了。
1255年に首都をコインブラからリスボンに遷都、15世紀の大航海時代幕開けの主役となってアフリカ大陸やブラジル、東南アジアの植民地化を進め、15〜16世紀に最盛期を迎えた。
1580年にいったんスペインに併合されるが1640年に再独立を果たす。
1999年に植民地であったマカオを中国に返還、今回の経済危機に際しては中国が早々に支援を表明するなど友好関係にある様子。
(トルコ旅行時は頻繁に「ジャパニーズ?」と声をかけられたが、ポルトガルでは東洋人を見かけるとまず「チャイニーズ?」と聞くのだそうだ。 もっとも、今回の旅行中一度も声をかけられなかったので真偽のほどは不明)
日本との関係では1543年(室町時代)の鉄砲伝来以降通商が活発化、1549年ザビエル渡来によるキリスト教布教など西洋の国としては最も古くから馴染みのある国である。
国民の97%がカトリック教徒、また、電気はスペインと同じで220V、50Hz、C型コンセント

<ポルト>
リスボンに次ぐポルトガルで2番目に大きい都市で、「ポルト歴史地区」として世界遺産登録されている。
アルコール度が高い甘口の「ポートワイン」が特産。
また、ポルトガルの建築物では壁にアズレージョの装飾を施したものが数多く見られるが、特にポルトでは教会や「サン・ベント駅」などで芸術的なアズレージョ装飾を見ることができる。
アズレージョというのは、14世紀にスペイン経由で伝わったムーア人(アフリカ大陸のイスラム教徒民族)のモザイクタイルが起源で、その後素焼きのタイルに上薬をかけ絵付けをしてもう一度焼く技術が生まれ、大量生産とともに装飾用ないし床や壁の保温材としてポルトガル国内で広く使われるようになったもの。

(今回のツアー最大の企画ミス?)
ツアー当初の旅程では12時半ごろにポルトに着く予定でしたが、サンティアゴでの競歩大会を避けて行程を入れ替え、出発時間も早めたので2時間も早く市街のはずれに到着し、たっぷり時間の余裕ができるはずでした。
ところが、ポルトの町も今日は特別イベント(欧米の大学は9月が新学期で、日曜日のこの日は大学新入生に対する恒例の「新人しごき」でパレードや集会があり町中が大変な賑わい)で道路封鎖が相次いでいてなかなか目的地に辿り着けません。
右に左にぐるぐる回った挙句、細い路地に入り込んで立ち往生、最後は運転手がバスを降りて通行人に道を聞く始末です。
スペイン語で聞いてポルトガル語で返事が返って来るのだから時間がかかること、かかること。
添乗員さんは「バスの運転手はスペインからそのまま来ているのでポルトガルの町の地理に詳しくないし、カーナビを積んでいないので・・・」と困り切った表情。
帰国後GPSロガーの軌跡で見たら、直線距離で約3.5km普通なら10分もかからない所を、町の外周を一周して20km以上も迷走、結局目的地到着まで1時間もの時間ロスとなってしまいました。
地理に詳しくないのがやむを得ないなら、カーナビ付きのバスを配車すべきですし、カーナビ付きのバスが無いのならポルトガルに入ったらポルトガルのバスなり運転手に代えるのが当然ではなかったでしょうか?

ともあれ、現地ガイドと合流して「カテドラル(ポルト大聖堂)」に入りました。
この聖堂の大元は12世紀の要塞(北方向にある「サン・ベント駅」から見ると要塞そのもの)、聖堂の前の広場には騎馬姿や槍を構える戦士の石像などが置かれています。
聖堂としての起源は12〜13世紀で、その後17世紀から18世紀にかけて増改築されており、ロマネスク様式やバロック様式が混在した建物になっています。
初期からあるものは正面のファサードと左右の鐘楼ぐらいで、バラ窓は13世紀、銀細工の立派な祭壇は17世紀、北側のロッジア(開廊)はイタリアの建築家ニコラウ・ナッソーニ(1691-1773年)による18世紀中ごろのものです

聖堂では大規模なミサの真っ最中でしたが、現地ガイドが大丈夫と言うので後ろに着いて中に入りました。
幾ら足音を忍ばせても20人以上の団体がぞろぞろ歩くのですから厳粛なムードに水を差すようで白い目線が気になるのですが、さりとてはるばる遠い国まで来ているのでやっぱり観光はしたいし・・・、“フグは食いたし、命は惜しし”の心境でした。
なるべく音を立てず、声をあげず、主祭壇の前には近付けませんでしたが、それでも「ヴァンドームのマリア像(16世紀にフランスのヴァンドームから持ってきたもの ポルトの守護聖人)」その他何枚かの写真はしっかりと撮ってきました。
(いつも中国人ツアー客のマナーの悪さを批判していますがこれではその資格無し?、でも現地ガイドの行動をツアー客が制止するわけにも・・・というのは言い訳でしょうかね?)
カテドラル サンベント駅からのカテドラル全景 カテドラル前の広場 左はクレリゴス塔
主祭壇 ヴァンドームのマリア像ほかカテドラル内の礼拝堂、内部装飾

聖堂は高台にあるため眺めもよく、北方向にはポルトのシンボル「クレリゴス塔(前述ナッソーニが1749年に建設したクレリゴス教会に付属した鐘楼で、高さ76mはポルト一を誇る)」、その左方向には16世紀に起源を持つ「サン・ベント修道院」と「写真博物館」、逆の右方向には構内いっぱいにアズレージョの装飾が施されていることで有名な「サン・ベント駅」と駅前にある「コングレガドス教会」、西方向には「セント・ローレンス教会」の鐘楼、南方向にはドウロ川対岸の「ヴィラ・ノヴァ・デ・ガイア地区(約60軒ものワイナリーやワインセラーが集まっている)」等々、天気も良いのでかなり遠くまで景観を楽しめます。
聖堂前の広場には高さ6〜7mで下から上までねじり模様の石柱があって、一番上には王冠を模った装飾、その下から4方に鉄製の腕が伸びていてその先にはリングが付いています。
これは「ペロウリーニョ」といって、この腕の部分に罪人を吊るして見せしめにしたという、芸術的な装飾に反して残酷非情な用途のものです。
大元は1495年に設置されたそうですが、今あるものは20世紀に入って復元したものです。
また、広場の一角には「エピスコパル司教館(12〜13世紀に司教の住居としてロマネスク様式で建設、18世紀に建て替えられたものでロココ調の窓枠が特徴的)」が建っています。
サン・ベント修道院と写真博物館 コングレガドス教会とサン・ベント駅 セント・ローレンス教会の鐘楼
ドウロ川と対岸の景色 ペロウリーニョ エピスコパル司教館

次に向かったのはドウロ川を渡った「ヴィラ・ノヴァ・デ・ガイア地区」、訪問先は大手ワイナリーのひとつ「グラハム社」です。
ここで1時間ほど時間をかけてCMビデオ、貯蔵庫見学、試飲、土産購入という流れです。
3種類のワインの試飲はどれも本当に美味しく、もっとも、もともとそれほど興味も無くて説明をよく聴いていなかったので違いは全く分かりません。
値段は確かに日本より数段安そうだったので土産用にミニチュア瓶セットをいくつか購入してきました。
グラハム社から見えるドウロ川 ワインの試飲会 対岸から見るガイア地区

もう一度ドウロ川を渡って大聖堂の近くまで戻り、「サン・フランシスコ教会」に向かいます。
この教会は14世紀にフランシスコ会修道院の付属教会として建立、当初は質素なゴシック建築様式の建物だったのですが、その後増改築を進める中で裕福な貴族たちの菩提寺ともなって贅沢三昧な内装の教会に変貌して行ったという歴史を持っています。
1833年ポルトガル内戦(1828-1834年の王位継承に係る内戦)の最中に相当部分を焼失、正面のファサードとバラ窓、五芒星のレリーフがある南門、八角形の後陣部分にゴシック建築の名残が残っています。
祭壇や礼拝堂の装飾は200kgとも500kgともいわれる眩いばかりの金箔で覆われ絢爛豪華そのもの、この繊細かつ豪華な木工細工は“ターリャ・ドゥラーダ(金泥細工)”と呼ばれるものです(ターリャ=木、ドゥラーダ=金で、木工細工に金を塗ったもの)。
なかでもフィリペ・ダ・シルヴァとアントニオ・ゴメスの手によって1718年に作られた「ジュゼの樹」は圧巻でした。
サンティアゴの「栄光の門」にあった「ジュゼの樹」は無機質な石材彫刻でしたが、同じテーマでもこうも表現が違うものなのかと考えさせられてしまいます。
素晴らしい内装のオンパレードですが写真撮影は禁止、商魂たくましく出口で絵葉書セットを売っていました。
12枚綴りで3ユーロ(≒330円)ですから良心的、未熟な素人写真を撮るよりこれを購入するほうが正解のようです。
教会の西側には18世紀に作られた「テルセイラ・デ・サン・フランシスコ教会」が接しており、現在は美術館になっています。
サン・フランシスコ教会 正面ファサード、五芒星の南門、八角形の後陣
主祭壇とジュゼの樹(絵葉書から転写) テルセイラ・デ・サン・フランシスコ教会

教会の北隣は「ボルサ宮」、焼失した「サン・フランシスコ修道院」の跡地に1834年に建設された旧証券取引所で、現在は商工会事務所になっています。
「アルハンブラ宮殿」を模した「アラブの間」が必見のようですが、今回のツアーでは入場観光になっていません。
目の前の「エンリケ航海王子広場」にはドウロ川を指さす王子(1394-1460年)のブロンズ像が立っています。
彼は当時の大西洋探検家たちのパトロン的な存在で、ポルトガル大航海時代幕開けの立役者ですが、1498年にインド航路を発見したとされるポルトガルの探検家ヴァスコ・ダ・ガマ(1469頃-1524年)とは若干時代がずれているようです。
「サン・フランシスコ教会」の南側には「セント・ニコラウ教会」、観光的には無名の小さな教会ですがアズレージョ装飾を施した壁面が目を引きます。

本日の観光を終了し、ここから徒歩で昼食のレストランに向かいます。
途中「エンリケ王子が住んでいた(可能性がある)家」と言われる建物の前を通りましたが、外観は殺風景なアーケードのある普通のビルなので知らなければ通り過ぎてしまいそうです。
ここは14世紀には王室と税関があった場所で、17世紀に今の建物に建て替えられており、内部に発掘復元された建物の一部などが展示されているということでした。
ポルサ宮とエンリケ航海王子の像 ニコラウ教会 航海王子の家

「カイシュ・ダ・リベイラ地区」というドウロ川沿いの繁華街で14時から遅い昼食です。
食事中に黒いタキシード姿の若い女性が入ってきてヴァイオリン演奏を始めました。
日本でいえば流しのギター弾きみたいなものですがどうやら音大生のアルバイトの様子、腕前は今ひとつでしたが2曲弾き終わると帽子を持って客席を1周します。
演奏の出来栄えより可愛さに負けた客が多かったようで(私もそのひとり)チップがたくさん集まり、もう1曲弾いていってくれました。

川沿いにはレストランや屋台で雑貨を売る店などが軒を連ねていますが大勢の客で大繁盛、半分以上は外国からの観光客なのかもしれませんが、これを見ていると国が財政危機に瀕している気配など微塵も感じられません。
この川べりからは街の名物「ドン・ルイス1世橋(パリのエッフェル塔を作ったグスタヴァ・エッフェルの弟子であったテオフィロ・セイリグの設計で1881年〜1885年に作られた高さ68mの橋。上に鉄道、下に自動車と二重の構造になっています)」が間近にその美しい造形美を見せてくれます。
川の対岸には「ラベーロ」といってドウロ川上流から樽に入ったワインを運んでいた運搬船が観光用に何隻も停泊していますが、50年ほど前までは実際に使われていた船だそうです。
船の舵が動物の尻尾(ラーボ)に似ていることから付けられた名前で、マストが立っていますから帆船だったようです。
カイシュ・ダ・リベイラ地区 ドン・ルイス1世橋 ドウロ川に浮かぶラベーロ
 
(次ページに続く)
  
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