サンティアゴ・デ・コンポステーラ観光

(前ページからの続き)
大聖堂を観た後は旧市街観光ということでしたが私は事情を話して離団、自由行動にさせてもらいました。
実は旅行前に、大聖堂の隣にある「サン・パイオ・デ・アンテアルタレス修道院」では修道女の方々による手作りクッキーを売っていて、市販されていないので直接修道院に行かないと手に入らないというネット記事を見つけ、物好きな私の好奇心をくすぐられていたのです。
ただ、修道院は夜遅くまで開いているはずはなく今はすでに17時半過ぎ、現地ガイドについて市街観光をしていたら閉館時間に間に合わないだろうし、明朝は出発時間が早い、離団して買いに走るしかなかったのです。
この修道院は聖ヤコブの墓が発見されて間もない頃にお墓を守る修道士の生活拠点として作られたのが起源、その後15世紀末から修道女の修道院となり、17世紀に建て替えられたものです。
いかにも外部との接触を断つ修道院らしく、頑丈そうな壁に48あるという鉄格子の窓と、半島戦争(1808-1814 仏ナポレオン軍とスペイン・ポルトガルとの戦い サンティアゴの学生も参加したと言われる)を記念した飾り板と白い十字架が見える以外ほとんど飾り気のない質素な建物です。
クッキーが買える入口は大きな建物をぐるっと回った裏側で、人通りもないひっそりとした路地に面していて看板も出ていませんから、事前に知っていなければ買うことはもちろん辿り着くこともできません。
恐る恐る建物の中に入るとガランとした広間があり、正面に鉄格子の小さな木製窓が一つあるだけです。

ネットの記事で読んだ通り、窓の横にポツンと付いている呼び鈴を押すこと数回、ようやく窓が開いて向こう側に品の良いお年を召した修道女の方が現れました。
「good af,afternoon fa,fa,famous coo,coo,cookies please」と言うと一旦窓が閉められ、暫くしたら大小2種類のクッキーの箱を見せてくれました(「通じた、通じた」)。
小さい方を指さして「this one five pieces please」、また窓が閉められ、再び開いた時には注文通りの5つの箱が手にされていました(「また通じた、通じた」)。
「25」という数字を書いた紙を見せてくれたので30ユーロを出し、お釣りをくれようとしたので目と手で制したら(予行演習をしていなかったので咄嗟に“寄進”という言葉が思い浮かばなかったのです)すぐ分かってくれたようで、ニッコリ笑って窓が閉められました。
1箱5ユーロ(≒550円)と予想外に安かったのですが、寄進がお釣りの5ユーロぽっちで良かったのかどうか・・・。
帰国後開けてみたら12個のクッキーが入っていて、味もほんのり甘くてなかなかのものでした。
話題性はあるし、買うまでのスリルは味わえるし、軽くて安くて美味しいし、嵩張ることさえ問題なければお土産には最適ではないでしょうか。
外に出たら手にべっとりと汗をかいていました。
2年前のスペイン旅行の際、トレドの「サン・クレメンテ修道院」でここと同じような形でマサパン(アーモンド菓子)が買えるということを帰国後に知って残念に思っていたので、この買物ができた喜びもひとしおでした。
その代り、クッキー購入に夢中で修道院のファサードやフレイ・ガブリエル・デ・カサス設計の付属教会を見てくるのを忘れてしまったのが残念でした。
サン・パイオ修道院 同 外壁の半島戦争記念 同 手作りクッキー

一旦ホテルに戻ってクッキーを部屋に置いてからひとりで市街散策に出かけました。
大聖堂の脇を通った際に、壁に飾られたいかにも立派そうな聖職者の胸像が目に入りました。
書かれていた文字を帰国後にgoogle翻訳で調べたところ、マルティン・デ・ヘレラ(1835-1922年)という方で、サンティアゴの大司教を務め枢機卿(ローマ教皇の補佐、代行、選挙に携わる重要職)でもあったという偉い方で、文章を直訳すると「サンティアゴ市の賛辞(?) この聖なる巡礼の不屈の主催者(?)」、そして一番下に1915年12月31日とあるので多分この日に年末の特別なミサがあった記念なのでしょう。

オブラドイロ広場側からみて「旧・シェロメ学校」の奥には16世紀にフォンセカ3世大司教(トレドの大司教にもなった方)が自分の生家跡に建てさせた「旧・フォンセカ学校」、現在はサンティアゴ大学の図書館になっています。
出入り自由な中庭はきれいに整備されていて、フォンセカ3世のブロンズ像が建てられていました。
マルティン・デ・ヘレラ大司教像 旧・シェロメ学校 同 中庭

次に向かったのは「サンタ・マリア・サロメ教会」、マリア・サロメは聖ヤコブの母親で、この教会はスペインで唯一彼女を祀る教会です。
12世紀に建てられましたが、現在残っているのはファサードだけで、柱廊は15世紀、鐘楼は18世紀に作られたものです。
観光名所でもなければ著名な教会でもないのにここを訪れたのは、ネットの記事にここには「妊婦のマリア」と「授乳のマリア」の珍しい彫像があるという話が載せられていたからです。
事実、入口の左上にはお腹の大きいマリア、中央にはキリストに授乳中のマリア、右上には背中に羽のある天使(他のネットの記事によると“受胎告知の場面”とありましたので、そうなら天使ガブリエルということになるのでしょうか)のいかにも古びた彫像がありました。
ややこしいのは、この教会はマリア・サロメを祀っているのだからひょっとしたら聖母マリアではなくてヤコブの母のマリアなのではという疑念、こういう時は現地ガイドがいないと不便です。
ついでに、新約聖書の中の「マルコの福音書」には舞踏の褒美にヘロデ王に“洗礼者ヨハネの首”を所望したという王の孫娘サロメの話がありますが、ヤコブの母のサロメもヤコブの弟のヨハネもこれとは別人です。
同じ名前があちこちに登場するので、信者ではない私の頭ではなかなか整理できません。
サンタ・マリア・サロメ教会 妊婦姿のマリア 天使 授乳のマリア 街中の柱装飾

次に目指したのは19世紀初頭に作られた「アラメダ公園」です。
公園の東端にはフランシスコ・リナーレス1885年作の2頭のライオンの彫像が乗ったゲートがあり、その先に進むと木立が途切れて「カテドラル」を望める場所に出ます。
高度差は殆んど無いのですが「カテドラル」までの間が窪地になっているので正面ファサードの上部や鐘楼、時計塔などがきれいに見える絶好の遠望ポイントです。
今は19時前で曇り空でもあるので特に変哲のない眺めですが、時期と時間帯によっては朝日をバックにしたシルエット、夕陽に染まる姿、ライトアップに浮かび上がる姿など様々な景観が楽しめそうです。
後で聞いたところではツアーでの旧市街散策でもこの公園に案内されたそうです。
アラメダ公園からのカテドラル

公園の中に面白い彫像がありました。
派手な服装の2人の女性ペアなのですが、帰国後ネットで調べたところ、昔この公園で若い大学生をナンパしている老姉妹がいたという話が元だとか、実話かどうかは不明です。
この町にある「サンティアゴ大学」は各学部が全部旧市街にあるわけではありませんが学生総数35千人近くにもなるそうで、そのせいか観光客以外は若者の姿が目立ちます。
夕暮れ時で街中のバル(日本ではパブとかスナックの類)は若い人たちで賑わっていました。

公園の一角にはバロック建築様式の「ピラール教会」もありましたが、ミサが始まる時間のようで大勢の人が集まって来ていましたので中に入るのは遠慮、カテドラル方向に戻ることにしました。
途中通った「トラル広場」に面してバロック様式建築の「ベンダーニャ邸」があります。
先ほど見た「ガビルドの家」や「デアンの家」を建てた建築家サレラによって1759年に建てられたものですが、ファサードにはベンダーニャ公爵の紋章と、大きな球(地球らしい)を頭上に掲げた男の彫像があります。
「高潔な女性がその下を通ると球を落としてしまう」という言い伝えがあるそうですが、未だに落としていないということは???
公園ゲート ??? ピラール教会 ベンダーニャ邸のファサード

夕食までまだ時間があったので、もう一度カテドラルの中に入ってみるとちょうどミサが始まるところでした。
目立たないようにそっと主祭壇の後ろに回り、団体行動中に見切れなかったいくつかの礼拝堂を写真に収め(前ページに搭載)、誰もいなかったのでもう一度聖ヤコブの背中に手を置いてゆっくり68年分の悪行の数々(?)を懺悔し、その後はしばらくミサの様子を後方から眺めさせてもらいました。
スペイン語なので何を言っているのかは当然分かりませんが、司教も賛美歌を歌う女性もお歳のわりに大変な美声、そういえばお坊さんの読経の声も美声が多いですね。

ホテルに戻ったら20時、日が落ちて「カテドラル」がライトアップされ、また、玄関前のテラスからは日没後の残光が山の向こうに輝いていました。
テラスの真下には18世紀建立の「サン・フルクトゥオス教会」、大聖堂の「アサバチュリア門」を修復したカーベイロによるもので、「オブラドイロ広場」やホテルのテラスから見るとちょうど教会のファサードが目線の高さになるように設計されたのだそうです。
夕食は今夜もパラドール内のレストランでゆっくり2時間コース、値段が高いツアーなりの満足感を味わえました。

 本日の万歩計歩数 19,800歩
サン・フルクトゥオス教会 ライトアップされたカテドラル

(翌朝の市街散策)
スペインの夏時間が終わって時計を1時間戻すので、日の出が7時半ごろということになって朝の散歩には好都合なのですが、旅程の変更でホテル出発が8;00と早まったのでまだ真っ暗なのを承知の上で6時半から散歩に出かけました。
手や耳がヒリヒリと痛いので気温は5〜6℃だったのかもしれません。
回った順路、主だった建物は以下の通りです。
「セルバンテス広場(理由は分かりませんが作家セルバンテスに捧げる噴水が作られたことから名付けられた広場)」→「サン・ベニート教会(セルバンテス広場の一角にある18世紀建立の教会)」→「聖アグスティン教会(17世紀中ごろ建立の教会で、小さなファサードにはかつてここにあった礼拝堂の守護聖女セルカの彫像)」→「サン・フィズ・デ・ソロビオ教会(この町で最も古い教会とされ、起源は10世紀の礼拝堂でその後12世紀にシェルミネス司教の命で教会が建てられた。「東方三博士の礼拝」のレリーフがあるファサードは1316年の作品、鐘楼は18世紀)」→「アバストス市場(1940年アルタミラ伯爵邸の跡地に建てられた集合市場の建物)」
サン・ベニート教会 アグスティン教会とセルカ像 ソロビオ教会とファサード装飾

旅行前の予定ではここから旧市街の北東方向の丘にある「ボナパル公園」に行って朝日に染まる大聖堂を眺めるつもりだったのですが、日の出まで待っていたら集合時間に遅れてしまうので順路を変更、それが失敗の元で道に迷い結果的には同じ場所をぐるぐる回ったりして大幅に時間のロスをしてしまいました。
帰国後調べたら、「聖マルティン教会(サン・マルティン・ピナリオ修道院の付属教会で、サンティアゴで最も美しいバロック様式の建物のひとつ。内部には既述カサス・ノボア指揮の下で1730年に34人の芸術家が共同作成したチュリゲラ様式の豪華な祭壇衝立がある)」→「旧イエズス会教会(17世紀建立、現在はサンティアゴ大学の付属施設)」→「聖母メルセダリアス修道院(17世紀のバロック様式建築で、ファサード中央にはマテオ・デ・プラド作の「受胎告知」のレリーフ)」→「エンセニャンサ修道院(19世紀初頭の建物で現在は小中学校として使用。ファサードは「被昇天の聖母」の彫像)」と回っていたのですが、残念ながらいずれも事前知識が無かったうえに暗いし、道に迷った焦りもあって立派なファサードがいくつもあったことには全く気付きませんでした。
ホテルに戻ろうにも相変わらず方向が分かりません。
運よく通りがかった女性に「カテドラル、カテドラル」と繰り返したら、大変親切な方で一生懸命スペイン語を英語に直そうとしてくれるのですが「えーと、えーと・・・」ばかりで一向に英語に変換されなく、指で方向だけ示してもらいお礼を言って先を急ぎます。
途中でもう2回道を尋ねてようやくホテルに帰館、出発時間の僅か20分前でした。
マルティン教会 イエズス会教会 メルセダリアス修道院 エンセニャンサ修道院

道に迷ってしまったおかげで当初行くはずだった「サン・フランシスコ教会(起源は古いようですが現在の建物は1742年から7年かけて建てられたもの。 シモン・ロドリゲスの設計による内装が素晴らしいと言われる)」を見逃したこと、また、昨日の離団行動の際にうっかりして「サン・マルティン・ピナリオ修道院(大聖堂に次ぐ2万uに及ぶ敷地で、スペインの最も大きな宗教的建造物のひとつ。 現在の建物は17世紀のもので、カサス・ノボアの手による4本のドーリア式円柱で飾られた正面玄関とファサード最上段の聖マルティンの騎馬像が見事)」の内部見学を失念してしまったことが残念でした。

宿泊ホテルは昨日に引き続き「パラドール」でした。
この建物は元々カトリック両王の命により王室お抱えの建築家エンリケ・エガス(1455-1534年、トレド大聖堂も手掛けた人物)の設計によって1501年から1511年にかけて建設された王立病院で、ホテルとしての開業年は不詳ながら世界でも古いホテルのひとつだそうです。
正面玄関のファサードはプラテレスコ様式で、それと分かる彫刻はカトリック両王、聖ヤコブ、12使徒、アダムとイヴなど。
建物本体は「田の字」型になっていて4つも中庭があり、部屋番号に統一性が無いので迷子にならないようホテルの見取り図が配られました。
ホテルの一角には16世紀に作られた王立礼拝堂、それほど大きなものではありませんが金箔の衝立が祭壇に飾られています。
サン・マルティン・ピナリオ修道院(前日撮影) 旧市街観光バス
パラドール 同 ファサード装飾 同 アダム像 同 イヴ像
パラドール 中庭 同 王立礼拝堂 巡礼者のお出迎え(前日車窓撮影)

ここまでで見た「貝印」のホンの一例です。
左からサラマンカ路上、カサ・デ・コンチャスの飾り、レオン路上、サンティアゴのレストラン看板
サンティアゴの建物壁面彫刻

  
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