4日目 アストルガ観光〜サンティアゴ・デ・コンポステーラ観光

ホテル出発は10;00、いよいよこのツアーのハイライトであるサンティアゴに向けて出発です。
昨日、一昨日とうってかわって快晴の空の下、途中レオンから南西に54kmのアストルガに立ち寄りますが、この間は高速道路が開通しているにも拘わらずわざわざ巡礼路に沿った自動車専用道路を走ってくれます。
冬が近づいているので巡礼者の数はかなり減っているそうですが、それでも車窓からはリュックを背負い杖を持って歩く巡礼者を何人も見ることができます。
巡礼路はもちろん舗装などされていなくて人がようやくすれ違えるくらいの細い道、その道端には貝のデザインを施し「Camino de Santiago(サンティアゴの道)」と書かれた道標がずっと道案内をしてくれています。
ちょうど黄葉真っ盛りで、青い空と黄葉、枯葉の巡礼路と巡礼者、絵になる風景が続きます。
巡礼者の出発 巡礼路(車窓) 黄葉の巡礼路(車窓)

<アストルガ>
紀元1世紀のローマ都市で、イスラム勢力がイベリア半島に侵入してきていた時期は無人緩衝地帯となっていた。
9世紀に入りアストゥリアス王国(718-925年)のオルドーニョ1世によって復興、その後巡礼路の重要な宿場町として発展した。
町の一部にはローマ時代からレコンキスタ時代にかけて作られた城壁が残っている。
カステラの語源はポルトガル語の「pao de Castelra(カスティーリャ地方のパン)」で、カスティーリャ地方はアストルガを含むスペイン北央部ということから、アストルガの焼き菓子「マンテカーデ」がカステラの起源ではないかという説がある。

この町での観光は「司教館」、当地のこの町の司教の依頼によって既述のガウディが設計し1889年に着工したものの、その司教が亡くなってしまったことや建設に関しての意見の食い違いが起きたことなどからガウディは手を引いてしまい、マドリードの建築家リカルド・ガルシア・ゲレーテなどが後を継いで一応1915年に工事完了、最終的な完成は1961年という“いわく因縁付き”の建物です。
建築はモデルニスモ様式といって、19世紀後半から20世紀初頭にかけてスペインで流行った芸術様式、曲線や華やかな装飾が特徴でフランスのアール・ヌーボー(=新しい芸術)のスペイン版といわれ、ガウディはこの様式を取り入れた代表的な建築家・芸術家のひとりです。
建物の外観はまるでお城、玄関は茶色を基調としたムデハル様式でまだおとなしいのですが、中に入るといかにもガウディらしい斬新かつ艶やかな装飾のオンパレードです。
調度品などは後から持ち込まれたものも多いのでしょうが、金・銀・宝石で飾られた聖具、銀製の大きな十字架、ステンドグラスをふんだんに使った色彩豊かな部屋模様など、結局この館にはどの司教も住まなかったということですが、尻込みをする気持ちがよく分かるような気がします。
残念ながら建物内部は写真撮影禁止でした。
司教館 同 入口(写真撮影はここまで可)

「司教館」のそばには「カテドラル(アストルガ大聖堂)」があって、このツアーの観光対象には入っていなかったのですが、昼食までの待ち時間に現地ガイドが外観だけ案内してくれました。
小さな町のわりには立派な聖堂で、着工は1471年、完成は最終18世紀後半といわれています。
その18世紀に作られたバロック様式のファサードにはキリスト降架のレリーフ、その上部に聖母マリア像、そのまた上には聖ヤコブ像が飾られています。
建物の左右には1678年建設の相似形の鐘楼がありますが、右側は1755年のリスボン大地震の際に被災し19世紀に入って修復・再建されたので、石材の違いから左の鐘楼は緑色っぽく、右は茶色っぽく見えるのが特徴です。
カテドラル 同 ファサード下段 同 ファサード上段

アストルガの西60km付近にラス・メドゥラスという町があります。
帝政ローマの支配時代に栄えた金鉱の遺跡が世界遺産登録されているのですがここには立ち寄らず、レオンから続いていた巡礼路からも離れて快適な自動車専用道路をサンティアゴに向けて走ります。
巡礼路の場合は標高840mのレオンから標高260mのサンティアゴまでの約300kmを歩く間にカンタブリカ山脈のイラゴ峠(標高1,500m付近)とセブロイド峠(同1,300m付近)という難所を越えなければなりませんが、1週間以上はかかったであろうこの区間を我々はバスで3時間半で走破、これまでの人生来し方を振り返る余裕も見つめ直す暇もないままあっという間に巡礼の最終目的地に到達してしまいました。
<サンティアゴ・デ・コンポステーラ>
イベリア半島の北西端にあり北緯42°53′、帯広と同じぐらいの緯度に位置する古都。
エルサレム、ヴァチカンと並ぶキリスト教3大巡礼地のひとつで、「旧市街」と「巡礼路」が世界遺産に登録されている。
大都市から遠く離れた田舎町で、旧市街はカテドラルを中心に教会と修道院だらけ、まさに巡礼路の最終ゴールの雰囲気が伝わってくる。
この町はキリストの12使徒のひとりである聖ヤコブ(=スペイン名サンティアゴ)の墓と遺骸が発見されたという813年が起源でここに礼拝堂が建てられ、世界各地からキリスト教徒の巡礼者が訪れるようになって発展した。
この地への巡礼の最古の記録は951年、ピークの12世紀には年間50万人が押し寄せたと言われるが、現在は年間約10万人とされている。

当初の旅程では市街観光は明朝ということになっていたのですが、明日は市内で競歩大会があって観光に支障をきたしそうなので急遽今日のうちに済ませてしまうということになり、先にホテルにチェックインしてすぐ再集合、現地ガイドの案内で「カテドラル(サンティアゴ大聖堂)」を見学します。
ホテルの前の「オブラドイロ広場」は100×70mの大きな空間で、北側に「パラドール」、東に「カテドラル」、南に「旧・聖シェロメ学校」、西に「ラショイ宮殿」という4つの大きな建物で囲まれています。
「旧・聖シェロメ学校」は貧乏学生対策の学校として15世紀に創設、ファサードを除いて17世紀に建て替えられ、現在はサンティアゴ大学の学長室として使われています。
また、「ラショイ宮殿」はフランス出身の建築家カルロス・ラマウルによる1777年完成の建築で現在は市庁舎、ファサードにはホセ・ガンビーノとホセ・フェレイロの作による「クラビホの戦い(レオン王国の前身であるアストゥリアス王国とイスラム勢力との戦い)」のレリーフ、その上にはホセ・フェレイロ作のサンティアゴ・マタモロス(モーロ人を殺戮する聖ヤコブ)の彫像が飾られています。
聖ヤコブの遺骸と墓が発見された9世紀はレコンキスタの真っただ中、サンティアゴ・マタモロスというのは844年の「クラビホの戦い」の際に白馬に跨った聖ヤコブが現れてムーア人を殺戮して王国を勝利に導いたという伝説から生まれたもので、以来聖ヤコブはレコンキスタの精神的支柱、守護聖人と見做されたのだそうです。
旧・聖シェロメ学校 ラショイ宮殿 同 サンティアゴ・マタモロス像

「カテドラル」の中心にある司教座はイスラム教徒によって破壊された教会跡に1075年着工、1128年に当時のスペインでもっともロマネスク様式の特徴を示した最大の建物として完成しましたが、その後も大幅な増改築が繰り返され主に17〜18世紀の大改造後の姿が現在の形になっています。
聖堂部分は縦97m、横65mのラテン十字型(十字の縦軸が長く、横軸は縦軸のやや上方で直角に交わる主にカトリック、プロテスタントなど西方教会系の十字架の形。一方、ギリシャ十字は縦軸と横軸が同じ長さで中央で交わり、ギリシャ、ロシアなど東方教会系の一部で見られるほか、赤十字やスイス国旗に使われている)で、天井の高さは32mだそうです。

正面は西向きで「オブラドイロ広場」に面しており、バロック様式のファサードはスペインの建築家フェルナンド・デ・カサス・イ・ノボア(1670-1750年)が1738年から1750年までかけて制作したもので、最上部に聖ヤコブ、その下に2人の弟子(テオドロとアタナシオ)の彫像があります。
また、聖堂正面の印象的な菱形の階段はヒネス・マルティネス・デ・アランダ(?-1621年)の設計によって16世紀末から17世紀初頭ごろに作られたものです。
両翼には高さ75〜80mの塔があり、右側が「鐘つき塔(12世紀起源、17世紀に補強して今の形に完成)」、左側が「ラチェト塔(鐘の塔を模して1738年に建てられたもの)」、そして前者には聖ヤコブの母であるマリア・サロメ、後者には父であるセベダイの像が飾られています。
カテドラル 中央に聖ヤコブ、右の塔にサロメ、左の塔にセベダイ像

聖堂の南側には「プラテリアス広場」、階段を上がったところにロマネスク様式で作られた「プラテリアス門」という2連の扉があり、ファサード部分には「最後の審判」のキリストや鬼を踏みつけている聖ヤコブのレリーフを見ることができます。
広場の中央には1829年作の4頭の馬をあしらった青銅の噴水、また、一角には1758年にクレメンテ・フェルナンデス・サレラによってバロック様式で建てられた「ガビルドの家(現博物館)」や「デアンの家(同じサレラの作品で現在は巡礼事務所)」があります。
サンティアゴ巡礼路を徒歩または馬で100km以上、自転車なら200km以上を踏破してきた巡礼者はここで巡礼証明書を発行してもらえます。
「巡礼は宗教的、精神的、文化宗教的な動機からなされる。(単なる観光ではない)」ということですから、観光目的でバスで乗り付けた我々には当然発行されません。

聖堂の南東の角には高さ72mの時計塔がありますが、これは14世紀の基底の上に1676年から1680年にかけてスペインの建築家ドミンゴ・デ・アンドラーデ(1639-1712年)によって制作されたものです。
プラテリアス門 プラテリアス広場 時計塔

聖堂の東側に回ると小さな「キンタナ広場」に面して「聖なる門(または免罪の門)」と名付けられた、聖ヤコブの聖年(ヤコブの誕生日7月25日が日曜日に当たる年のことで、前回は2010年、次回は2021年)にのみその1年間を通して開かれるという特別な扉があります。
外部に面しているのは普通の鉄格子の門扉ですが、上部にはペドロ・デ・カンポ1694年の作と言われる巡礼姿の聖ヤコブ像、門扉の両袖にはマエストロ・マテオ(1161-1217年)作の聖書に登場する人物24体の彫像(もともと内陣にあったものを移設)が飾られています。
門扉の内側にほんの小さなスペースがあってそこに本来の「聖なる門」があります。
聖堂の中から見ると青銅製の重厚な扉で、元々は木製だったものを2003年に彫刻家スソ・レオンの手で作り変えられたものです。
扉の上には聖ヤコブと思われる人物を描いたステンドグラスの窓があるのですが、外から見上げても壁に窓は見えませんので、多分小さなスペースの上部が吹き抜けのようになった二重壁構造なのでしょう。
聖堂の東面にはもうひとつ、前述アンドラーデ作の「王の門」があったのですが、有名な「聖なる門」に気を取られて見落としてしまいました。
多分国王が礼拝するときに使われた入口なのでしょうが、ネットやガイドブックにも説明記事が見当たらず詳細不明です。

聖堂の北側は「インマクラーダ広場」に面していて2連式の「アサバチェリアの門」がありますが、これは18世紀半ばに崩落した後にルーカス・フェロ・カーベイロ(1699-1770年)の原案に基づいてドミンゴ・ロイス・モンテアグード(1728-1786年)が1769年に完成させたバロック様式のファサードを見ることができます。
聖なる門 同 扉の内側とステンドグラス アサバチェリアの門

菱型の階段を上って正門の「オブラドイロ門」から聖堂内部に入ると1188年に前述のマテオによって作られた“ロマネスク芸術の最高傑作”と言われる「栄光の門」があります。
本来ここが聖堂の正面玄関でしたが、前述のノボアが18世紀に「オブラドイロ門」で覆ってしまったために内門のような形になってしまったものです。
中央の柱の上部には聖ヤコブの彫像、その下は基底まで「ジュゼ(=ヨセフ)の樹」とか「エッサイ(=ダビデ王の父)の樹」と言われるキリストの系図を示した彫刻で覆われていて、柱の下のほうはここを訪れた巡礼者たちが手を触れて祈るので、そこだけ摩耗、変色していました。
(触れる場所は正確にはダビデ王の足元にある1本の枝の彫刻らしく、そこが一番白くなっていますが、周りも結構摩耗していますから正確な場所を知らなかったり混みあっていて枝まで手が届かなかったりした人たちもたくさんいたという歴史が窺えそうです)
柱の基底部分には人面が彫り込まれていますが、製作者のマテオではないかと言われています。
また、柱の背面にも人物坐像があり、公式には「サント・ドス・クロケス(頭部打撲の聖人)」といって、この像の頭を3回叩くと頭がよくなるということだそうですが、これもマテオではという説があるそうです。
工事中なのか防護柵の役目なのか、柱の周りには鉄格子、上部には足場が組まれているので、現在は手を触れることもティンパヌムの装飾レリーフ(キリストを中心に何十人もの聖職者などを彫った大作)も見ることができませんでした。
オブラドイロ門 栄光の門のジュゼの樹 右端がサント・ドス・クロケス像 

中央祭壇の上部にある金箔の豪華な天蓋は前述のアンドラーデによってチュリゲラ様式で17世紀後半に作られたもので、その上には白馬に跨ったサンティアゴ・マタモロスや聖櫃を担ぐ天使などが飾られています。
天蓋の下の祭壇は1649年から1672年にかけてペーニャ・デ・トロによってバロック様式で修復されたもので、そこに聖ヤコブ像が祀られています。
ミサの最中だったので正面からは近づけませんでしたが、目も口も大きく開けていて素人目にはあまり威厳が感じられず、芸術的にもやや稚拙な印象を受けました。
この聖ヤコブ像は背面にある階段を登って背中に手を置いて祈ったり口づけできるようになっていて、我々一般の観光者も列に並んで真似ごとをすることができます。
押すな押すなの状況ですから、巡礼者でも信者でもない者はゆっくりお祈りしたり懺悔したりしている時間はありません。
ヤコブが着ているマントにはいくつも宝石が埋め込まれているのでその警備をしているのか、それとも長っ尻の人を急き立てる任務なのか、警備員がひとり椅子に座って監視をしていました。
祭壇の真下の地下は聖ヤコブの墓所(クリプト)になっていて、銀の棺が置かれています。

中央祭壇の前には天井から巨大な香炉(ボタフメイロ)が吊り下げられています。
16世紀にフランスのルイ11世が寄贈したのが起源で現在あるのは1851年に制作されたもの、高さ1.6m、重さ80kg(ネットの記事では70〜110kgまでマチマチです)、大きなミサの際に(あるいは観光用にも?)この香炉を焚いて空中をブランコのように遊泳させる儀式が有名です。
残念ながら我々の滞在中には見ることができませんでした。

中央祭壇の手前の壁の両側上部に金箔装飾のパイプオルガンが設置されていますが、オルガンは1712年マヌエル・デ・ビーニャ作のもの、装飾部分はミゲル・デ・マロイによるものです。
パイプ部分が横方向にも張り出している珍しい形をしていますが、「イベリア式」と言われるスペインとポルトガル独特のもののようで、サラマンカやレオンの大聖堂にあったものも同じような形をしていました。
主祭壇 ボタフメイロ オルガン

中央祭壇を取り囲むようにしてたくさんの礼拝堂があり、それぞれ特徴があって目を楽しませてくれます。
「ピラー礼拝堂」はミサの最中だったので中には入れませんでしたが、立派な祭壇の右上に大きな貝殻か扇のような彫刻物があってその上に赤い「サンティアゴ騎士団の十字架」が描かれているのが印象的です。
「サンタ・カタリーナ礼拝堂」の横には18世紀後半ホセ・ガンビーノ作と言われるサンティアゴ・マタモロスの彫像がありますが、馬の足元は密集した草花で覆われています。
ネットに掲載されていた昔の旅行記の写真では、セゴビアの「アルカサル」にあった衝立の板絵と同じようにモーロ人戦士の生首が転がっているという凄惨なもので、おそらくイスラム教徒の人々への配慮から最近になってその部分を草花で覆い隠したのでしょう。
「白い聖母礼拝堂」の祭壇にはよく見かける青いマントを纏った聖母マリア像、ただ、どういう意味があるのかは分かりませんが祭壇の右手前にモンセラート修道院で見た「黒いマリア」の像が置かれていました。
「モンドラゴンの礼拝堂」は1526年ミゲル・デ・セビージャ作のピエタ像が彫られた大きな金箔の祭壇が見事です。
このほかにも短時間の駆け足観光では見きれないほど目を引く礼拝堂がたくさん並んでいました。

サラマンカの「サン・エステバン修道院」を建設したホアン・デ・アラバや、「セゴビア大聖堂」を建設したロドリーゴ・オンタニョンによって1521年から1590年にかけて建築された「回廊」が聖堂の東側に隣接しているのですが、ここは素通りで見ることができませんでした。
ピラー礼拝堂 サンティアゴ像 白い聖母礼拝堂 サン・ジョアン礼拝堂? モンドラゴンの礼拝堂
 
(大聖堂に関する記述は以上の通りですが、ツアーでの団体行動は現地ガイドの説明を聞きながら「オブラドイロ門」→「栄光の門」→「中央祭壇」→聖ヤコブの背中→「クリプト」の順に30分間で回っただけです。建物の外観、内部の各礼拝堂等の残りの記述についてはこの後離団してもう一度ひとりで1時間近くかけて見直したことによるものです)

 (次ページに続く)
  
inserted by FC2 system